明治政府の近代化政策において、「やること」「やらないこと」の線引きにおいて、一般市民の環境に関しての街作りには、明白に手をつけない態度が取られていたようです。

この方法は、優先順位が明確化していて、都市の近代化を成功させた秘訣であると唱える人々もいますが、放置状態の一般市民の暮らしぶりは、明治維新前も以後も代わり映えしない程度に、安定していたのかもしれません。

近代化東京都市の地図作成を試みる形で、文明開化について紐解いてみると、「洋風化」と「防火対策」「清潔な飲料水」が、現代の東京に繋がっていると言っても過言ではないようです。ところが、1872年(明治5年)、銀座で火事が起こり一帯が大幅に焼き尽くされてしまいました。

火事の直後から、この機会に一気に洋風化への都市計画が、あったようなのですが、相当無理をして「銀座煉瓦街」を完成させたようです。

銀座は、新橋、横浜の鉄道が開通してから、文明の玄関口として、現代も同時も賑わいをみせています。

現在もその面影を残す「銀座煉瓦街」は、明治の近代化の象徴とも呼べる空間でもあります。

当時は、商人の街として「日本橋」がメインに様々な取引が行われていましたが、明治の近代化による生まれ変わった街「銀座」には、新しい街として、人々に受け入れられ、日本橋を追いぬくような商店街に発展していきました。

現代の銀座にも、多くの人々が行き来していますが、近代化東京都市の地図作成の中では、様々な街の風景の生き残りと、立て壊しが、世界都市東京のバックボーンとなっているようです。

   

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